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腸チフス入院×2回 

<書き途中 写真有り>

もうろうとする頭で、南半球で季節が逆で、何月ですか の医師の質問に答えられない
頭の病気と思われる
眼球も動かせない頭痛

その次は
手が黄色いから肝硬変かもと言われる
私は黄色人種です!
でもエコーの機械が病院に回ってくるまでわからない



次は抗生物質がないから死ぬよと医者に
薬の強さ(量)が日本の基準の3倍ぐらいあったらしく、日本の保険会社 
から電話がかかる。本当に飲んだんですかと。難聴になるらしいと。
点滴しながらシャワー
入院中に他の日本人患者の通訳
私の病室は看護師のたまり場か
ICUから出て 駐在員に死んだと勘違いされる

多分野菜を洗った水
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独立記念日に出産

メキシコ独立記念日に出産

 一人目の子どもをメキシコで出産した。下の子たちは日本で出産したので、その違いがとても興味深かった。
 メキシコにいた時、妊娠中の定期検診を個人の医師の小さな診療所で受けていた。病院の無機的な空間とは異なる、暖かみのある落ち着いた部屋で、心理カウンセリングを受けるような雰囲気でソファにすわり、ゆっくりドクターと話をすることができた。予約制で最低一時間、ときには2時間ぐらいかけての診察だった。診察室で内診や計測などの検診を受けた後、別の応接室のような部屋でじっくりと相談をすることができる。医学的なことはもちろん、普段の心がけから食事のレシピまで指導してもらえる。妊婦にありがちな便秘にはパパイヤの種を少し入れたスムージーをすすめられ、毎日飲んでいた。ハイビスカスのお茶も毎日飲むように言われた。かかっていたオメオパタの医師に紹介してもらったので、西洋医学オンリー のドクターとは少しちがっていたのかもしれない。ドクターとたっぷり時間をかけて話ができたことは、異国での初めての出産の不安解消のためにとてもありがたかった。ただ、エコー撮影は水を2ℓも飲まなければならない旧式の機械だったので、膀胱が破裂寸前でつらかった。
 分娩は、出産専用の大きな病院でするのが一般的だった。各診療所から産むためだけにやってきた妊婦だらけの大病院は独特の雰囲気があった。分娩室がずらりと並んでいる様子は、明るい工場のようにも見えた。周産期は混まない小さな診療所で丁寧に診てもらい、リスクの伴う分娩の時だけ施設が整っていて入院できる大きな病院へ、それまで診てもらっていた診療所の主治医とともに行くというのは効率的なシステムだと思った。
 だが、幸か不幸か産気づいたのがメキシコの独立記念日で、街はお祭り騒ぎ。とりあえず出産用の病院に入院したが、私の主治医もお祭り気分でどこかへ行ってしまっていてぎりぎりまでつかまらなかった。病院の出産助手みたいな人に「先生はもうすぐ来るから」と励まされ続けた。結局、出産の途中まではその大病院付きの助産師さんが手助けしてくれて、ギリギリで主治医の先生が駆けつけた。    
 独立記念日のおかげでバタバタと落ち着かない出産だったが、娘の誕生日がメキシコの独立記念日になったので、誕生日を言うたびに「なんて愛国心のある子なの!」と、わけのわからない賛辞を受けたものである。
 出産直後、自分の病室に戻ったら、なんと職場の同僚がずらりと全員いる。朦朧とするなかで、おめでとうのハグを全員がしてくれたが、産んですぐなのでめまいがしてきつかった。日本ではこのタイミングでは普通来ないと思う。これはメキシコでは当たり前のことなのか、私のいた職場が変わっていたのかわからない。ありがた迷惑このうえない。
 すごく空腹だったので病院のステーキを食べた。
 役所の人が出生登録のために病室に来た。生まれたての娘の、直径1センチに満たない小さな指印を押したのが印象に残った
 そして、翌日には、特に問題ないので退院しますかと聞かれた。異国で家族もいないので、少しでも病院で休むために、もう一泊させてもらった。日本で出産した時は一週間ぐらい入院して、授乳や沐浴のしかたまで教えてもらって至れり尽くせりだったのに。そういえば、入院の前も、持ち物はとドクターに聞いたら、化粧品ぐらいと言われた。国が違えばこうも違うものか。
 退院した日、自宅のベッドに赤ん坊を置いて夫とベッドに腰掛けて、さてどうしましょうと途方にくれていた時間を今でも思い出す。ここから先は自分たちだけでこの小さな生き物の命をを維持していかなければならない。毎朝、息をしているか緊張気味に確認していた。  ベビーバスがなかったので、いきなりシャワー。
 日本語の育児書も持っていなくて、当時はインターネットもそんなに普及していなかったので育児のほぼすべてがわからない。私の家族は日本、夫の家族はアメリカにいるので遠くて頼れない。職場の仲間は、子育てがだいぶ昔のことにになってよく覚えていない世代だったり、独身だったりで、これもあまり頼りにならない。
 結局なにもかも本能に聞くしかないという状況だった。
あれこれ赤ん坊の心配事の質問をためて、検診の時にドクターに聞きまくるのであるが、たいていのことは「それ普通」と言われた。
 よくわかったのは、赤ん坊というのはけっこう強く、少々まちがっても、大丈夫ということだった。かわいいのを味わっていれば、必要なサインは赤ん坊のほうが出すし、親は本能的にそれに対応できるようにできている。要はそれを信じられるかどうかだ。過剰な頭だけの知識は迷いを増やして、感じることを鈍らせてしまうのかもしれない。
 例えば、離乳食のスタートにしても、赤ん坊が、親の食べ物をだらだらヨダレをたらして必死に食べたそうに見ていたらちょっとあげてしまう。そして特に問題なくもっとほしがったらあげてしまう。そんなふうに、始まっていった。何ヶ月で何をスタートというのは細かく分かってはいなかった。ただ、柑橘系のものと魚のスタートについては早すぎないようにドクターから言われていた。
 妊娠中も赤ん坊が生まれてからも、メキシコでは街の人々が自然に助けてくれたので、どこでも安心して出かけることができた。バスの乗り降りの時には、周りにいる知らない人が手をかしてくれたり、荷物を持ってくれたりした。ドアの開け閉めやエレベーターのドアの操作も気遣ってくれた。段差が多く、道は古くてでこぼこの石畳で、物理的には全くバリアだらけだったけれど、人の優しさのおかげで不便に感じることはなかった。ハード面でのバリアフリーはないけれど、ソフト面でバリアフリーになっていた。赤ん坊連れの時は女王様気分を味わえた。赤の他人の赤ん坊でもみんなニコニコとちょっかい出してくれたり、気遣ったりしてくれた。   
 出産の2日前まで仕事をしていたし、出産後は1ヶ月自宅で仕事をし、その後職場復帰をした。夫が主に面倒をみていたが、どうしてもふたりとも仕事の時間が重なる時は、職員室にある大机の上に転がしておくと、賄い作りのセニョ−ラや休憩中の教師が面倒を見ていてくれた。今から思うと非常識なことをしていたのだが、みんなの厚意に甘えてしまっていた。赤ん坊はみんなのおもちゃになっていた。以前はヘビースモーカーだらけで煙突のような職員室だったのが、いきなり学校中が禁煙になった。現在はメキシコでは喫煙できる場所が厳しく決められているが、ふた昔前は、モクモクだった。 
 メキシコを出たとたんに手助けしてくれる人や話しかけてくれる人が減って困惑したものだ。
 子育てについては、周りの人々があることないこと様々なアドバイスをくれた。毎朝オリーブ油をスプーン一杯飲ませなさいとか、レタスを枕元に置いておくと寝付きが良いとか、体調が悪そうな時は生卵で邪気を吸い取れとか。実行したものはないが。レタスは
科学的根拠があると日本のテレビでやっていた。
 メキシコでは人と人とのふれあい距離が近いので、初対面でも普通に話しかけることが多い。娘は赤ん坊の時に、いろんな人にかまわれまくったためか、今でも人懐っこい。そんな距離感のまま日本で同じ年頃の小さい子どもに接しては、相手の子に引かれていた。
 外国での出産子育ては戸惑うことばかりだったが、多くの人のおせっかいに守られて、楽しかった。

砂漠のミイラが、リマでベトベト 

砂漠のミイラが、リマでベトベト 
砂漠を歩くと、人間の骨にいっぱい出会う所がある。昔の埋葬跡で、めぼしい副葬品は墓泥棒に盗まれて、残された骨。骨。
とても乾燥したサラサラの白砂のそこここにある真っ白な頭蓋骨や大腿骨などに不気味さは全くなく、平気で手でさわれる。
外国の研究者が砂漠のミイラををリマに大量に運んだ。ジャガイモのはいったズタ袋みたいに、博物館の倉庫に夥しい数が保管されていた。リマは湿度が高いので、水分を含んで袋に汁がしみてきている。学術的にキチンと開けていくには時間と費用がかかるので、積まれたまま。
せめて砂漠にそのまま置いておいたら、汁が出るようなことにはならなかったのに。
博物館のバックヤード?を見せてもらう。頭がい骨は外科手術や変形がなされていてさまざまな形になっている。
ハート形もある。頭がい骨手術で穴のあいた物もあった。あなは一個のものもあれば2、3箇所開いているのもある。穴の部分の骨が少し再生しているので、手術後も生存していたことがわかる。
<写真 入れる>

アマゾンの縮首もある。まつげもはっきり見える。頭頂には持つための?ヒモもついている。頭がい骨をぬいてから煮て干してを繰り返し縮めるとか。私も一度セントロ近くの道で、買わないかと声をかけられたが、現在は売買禁止されている(当たり前)し、いらんし。

横転バスの救助

この後アレキパからリマまでまた長距離バスで移動。
船や列車で色々あったためか、生まれて初めての車酔いになった。
脂汗を流しながら吐き気とたたかっていた。パンアメリカンハイウェイは砂漠の中の一本道で、
まわりは見渡す限りの砂漠なので、最悪の場合窓から吐けばいい。と思ったら窓が壊れていて開かない。ナスカ平原あたり。
我慢してたけど、もう砂漠で死んでもいいから降ろしてもらおうと、運転席の方に向かった瞬間、バーンという音とともにバスが急停車。ラッキー、私にとってはこれ以上ないタイミング。砂漠に一人降りることは危険すぎる。でも、パンクによって全員降りて来たから、安心だ。念ずれば叶う。大ピンチの後に小さく救われることが多い。この時ばかりは、自分には変なパワーがあるのではと真剣に思った。そんなわけはないが、あまりにもタイミングがはまりすぎで。
結局修理が終るまで、砂漠で数時間足止めになったが、一人で降りることと比べたらゼンゼンOK!
他の人たちも文句を言うこともなく、砂漠の起伏の向こう側で用を足したりしていた。こういう時の忍耐強さはすごい。
もしパンクしてなくて一人で下車していたらどうなっていただろう。ビニール袋大事。いつでも吐けるように。

パンアメリカンハイウエイの夜行バスにはは毎週末ほど乗っていたので、バス会社の特徴もよくわかる。とにかく速い会社、豪華だけどちょっと遅い会社、安い会社など。バス会社によって所要時間がえらく違うのも不安だ。スピードをとるか安全をとるか。

夜行バスで走っていると、ひやっとすることがよくある。
ハイウエイとは言え、細い一本道が、真っ暗な砂漠の中をひたすらまっすぐに走っているだけである。
鋪装道路の両わきはガードレールもなくそのまま段差があって砂漠の地面。
運転手はそこを恐ろしいスピードで走る。休憩もあまりとらない。

たまに 途中のドライブインで食事休憩をとることもある。
日本の夜行バスのように「⚪︎分間休憩です。⚪︎分にはバスに戻ってください。」というお知らせは一切なく、突然停止して、運転手がレストランで食事を始める。私たちもそそくさと食事を摂ったりお手洗いに行ったりする。怖いのは出発もいきなりバスが動き出すということである。常に運転手の動きを注視していなければならない。彼らが乗り込んだらすぐに勝手に出発するので、それまでに乗り込まないと置いていかれる

一度、横転したばかりのバスに出会った。私のバスは救助のために停車。乗客みんなで横転したバスのフロントガラスの割れたところから車内に入って、けがをした乗客をバス外に運ぶ。
子供がお母さんを探して泣き叫んでいたので、いっしょにさがす。
別のバスを止めて、街まで、けがをした乗客をはこんでもらう。救急車とか警察に連絡している気配はなし。救急車はあまりないし、民間で有料。呼んだとしてもここまでは数時間かかる
公共サービスはないに等しいので、自分たちでなんとかするところがすごい。
以前道で事故にあった人の腹部に大きな石をのせて止血??しているのを見た

チャチャポヤス


 山の上のすごい遺跡 山の上の崖の途中に穴が作らていて、素朴な立像(モアイ風)が数体ならんでいる。その頭や肩には頭がい骨がおかれている。当時あまり知られていなくて、ドイツのTVクルーが撮影に来たぐらい。その近くの山の遺跡にガイドと二人で登った。すごい遺跡に感動した帰り、よりによってガイドが膝を壊し、ガイドに肩をかしながらというか、半分かつぐ状態で険しい山を下る。
遺跡にあるものがどんどん盗まれているらしい。えーそんなんしたらあかんやん。と言ったら、うちにもあるよ。と言う。買う?と聞かれたが持って帰れない。し、法に触れるやろ。 後日 そのガイドはリマの博物館にその像を売りにきて100ドルと言われてやめた。そのお金でひざの手術をしたいとか言っていた。
 日本に帰ってから、某有名市立大学の探検部の方が自宅まで情報収集に来た。チャチャポヤス(上記の遺跡のある所)で、そのガイドから私のことを聞いたらしい(その時貸したビデオを返してくれなくて大学あてに手紙を書いて取り返したこともあった)。

引き出しにピストル

 日本語学校の同僚は海軍のパイロット。 
 日本語教師もしている。
     
 職員室の引き出しにピストルを入れておくので迷惑
 聞けば軍人はいつも携帯義務があるとか。さすがに教室に行くときは置いて行くのだが、それが引き出しの中。
 「ホッチキスかしてー」とか言って引き出しを開けるとピストルがゴロン。物騒。

 その同僚が軍人なのに、地下鉄構内で3人組の警官に襲われピストルをとられて、しょげていた。

 映画トップガンに出てくるような戦闘機に乗ることもあるらしく、強い重力のため、その後は下痢をするのだと か。

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狂犬病の犬の首が盗まれる

地方で知り合いの日本人が犬に噛まれた。
その犬は狂犬病のように見える症状だった。
その人自身は狂犬病の予防接種をしているものの、
その噛まれた犬が本当に狂犬病かどうか調べるために首都リマまで犬の首を
大事に大事に持って来る途中、バスの中でその入れ物を盗まれた。

盗んだ人は、驚いただろう。
日本人がとても大事そうに運んでいる箱を盗んでみたら
中身は犬の首だったとは。

聞いた話なので、本当の話かどうかは知らない。
でもこんな話、作ろうとしても作れない。ハズ。

カラテカ(空手家)か?

道ですれ違いざまよく「チナ」とか「オユキ」とか言われる。
チナは、直訳では中国人(女性)だけど、アジア人ぽい風貌の人をまとめてそう呼ぶ。
オユキは昔ヒットした日本人が出てくるドラマ
たいてい聞き流すのだが、前から言わずに後ろからこそっと言うのでムカっとすることがある。たまに、ふり返って追っかけて行くことがある。そうすると
「お前はカラテカ(空手家)か?」と聞いてくる。 
「そうだ」 と言うとピューっと逃げて行く

罰金がガソリン直抜きって

 運転中警察に因縁をつけられる。ライトがついてないとかなんとか(昼間)
 なんかいろいろ難癖をつけたあげく 
「交番の電球が切れてるから電球を買わないといけない。罰金払え」って。
「お金持ってない」と言うと
「現金がなければ、ガソリンでいい。ぬかせろって。」
 ガソリン直抜きで罰金って、あなた...

「この車には探知機が着いていて、今私がどこにいるかはすべて日本政府が把握している。」
なんてこっちもマンガみたいなこと言ったら、「行ってもいい」 だって

シンパティコ

泥棒の話をいろいろ書いたけど、いい人のほうがほとんどである。

人への気遣いや助け合いの気持ちはごく自然にあふれているし、ささっと当たり前に行動できる人たちである。心地よいおせっかいが溢れている。乗り合いバスでは、たとえぎゅうぎゅう詰めでも全員が少しづつ腰を浮かして新たに乗ってくる人のスペースを作ろうとする。そんな空気がどこにでもあるから、一人で旅をしていても、この人たちがいる所では、何かあっても大丈夫と感じていたし、実際、どれほど助けてもらったことか。。

 物理的にはバリアフリーではまったくないけど、いつも必ず知らない周りの人が手を貸してくれるので、大丈夫。
特に、妊婦、赤子連れの時はもう女王様。スーパーマーケットでもバスでも。道は開けてくれるし、荷物は持ってくれるし、乗り降りは手をひいてくれるし。席は100%譲ってくれる。それができないことは人間としてダメといった目で見られる。

 帰国前に服を寄付したのだが、ジーパンのポケットに時計を入れっぱなしにしたまま渡してしまった。私は気づいてもいなかったが、数ヶ月後、いろんな人をたどって、家まで持って来てくれた。人から人へと面倒だったと思うけど、戻ってきた時には感動した。
USSRの時計で、小さくて手巻きで気に入ってたので嬉しかった。また失くしたけど。

 中南米を一人で旅をしていたが、当時、バスターミナルなど、人ごみにいると呼吸や脈が弱くなって気を失ってしまう持病があった。今でいうパニック障害に近いのかもしれない。ぺルーのバスターミナルなどでも何回も倒れたりしたが、意識が戻ると何人もの知らない顔が倒れている私の顔を心配そうにのぞきこんでいた。パタパタと扇いで風を送ってくれている人、荷物を守っていてくれる人、アルコールを嗅がして気付をしてくれている人、汗を拭いてくれている人。みんな通りがかりの見ず知らずの人たちである。

彼らの人と人との関係のあり方は、その死生観と関係していると思う。それはまた別の時に詳しく。
 
 日本に帰国直後、東京駅でおばあさんがエスカレーターの上の方から転がり落ちてきて、私ひとりでは支えきれず、誰か助けて下さいと叫んだのに誰も助けてくれなくてショックを受けたことがあった。
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